6月13日(貧困2)-種村尚大

 

― なぜあなたは「ここ」にいるのか

 

心の鏡に映し出される「自分」から頻繁に問われる言葉だ。

同じような経験をした人は少なくないと思う。

 

 

「ここ」が示す場所は、here、日本、地球、宇宙、銀河と広くなっていく時もあれば、

6月13日(土曜日)午前10時から正午までの間に開催されていた「PEPUPオンライン学習会」

といったように様相を大きく変えるときもある。

 

 

ここで「自分」だけでなく「他の参加者」に問いたい。

「なぜあなたは一日24時間の中で2時間を『PEPUPオンライン学習会』に費やしたのか。」

 

 

さらに、このようにも問いたい。

「なぜあなたは『神戸大学国際協力NGO PEPUP』のメンバーなのか。」

「なぜ貧困について自らの世界観、信条、思想を語ったのか。」

 

 

 

― 世界観、信条、思想の語り手達が奏でるもの

 

人は対話で様々な側面を表す。

 

 

人は自身の紡いできた(自身によって紡がれたものではないものもあるかもしれないが)物語(ナラティブ)を

潜在的に自らのお立ち台として用いてオピニオンを表明する。

 

 

交わらせようと一人も試みなければ交わることの無い前提(ナラティブ)。

 

 

それは、「 I と They 」のプロセス。

対話なのだから仕方ない。当たり前だ。皆で「 I 」側に立ちに行こう。

 

 

しかし、姿どころか影すらも見たことの無い”それ”が現れると、

突然、歩み寄るのをやめてしまう。

 

 

生存本能とも言えるだろう。考えたこともないことを突き付けられると足がすくむ。

分からない。見たこともない色。

 

 

すると、人々はじっくり眺めることもなく、

”それ”に一番近い色を手持ちのパレットから持ち出し納得する。

いや、納得したと暗示をかけて去っていく。怖いから。分からないのが。当たり前だろう。

 

 

理解ができなくても、分からなくても、手持ちで定義せずに「受け入れる」。

あいまいな歌詞の意味や物語の結末を狂ったように思考して、作品にぶつけて気持ち良くなる人たちがいる。

 

 

この人たちは結局作者の本当に意味するところを知っていない。でも、知らなくていい。模索もしなくていい。

受け入れようではないか。

 

 

と、まぁ結局のところ、そうなることはありえないだろうが。私も含めて。

ただ、常にこうして向き合いたいものだ。

 

 

ジレンマの話でした。

 

種村尚大(たねむら しょうた)