人でなし、といっても義理人情の話ではない。フィリピンの人口政策の話。

 

 フィリピン議会では201212月に「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)法」(共和国法第10534号)が可決された。

いわゆる人口調整、人口抑制のために政府が、女性の権利向上をはかる、家族計画関連情報や避妊具普及に努める、青年層に性教育を施すといった内容。

かつての中国「ひとりっ子政策」のように産児制限を強要するものではない。

にもかかわらず、法案審議過程では、フィリピン社会を分断してしまうかのような激論が交わされた。

 

 米国援助庁USAIDや国連ミレニアム開発目標MDGsのバックアップを受ける政府は、人口過剰、貧困対策、資源の効率的配分の観点に立って、家族計画の推進を図ろうとする。

一方、フィリピン社会で大きな影響力を持つカトリック教会は、人口避妊や中絶、青少年への性教育普及による倫理的退廃を危惧して宗教的観点から激しく反論を加えた。

 

 法案で実質的な中絶を認める政府が、赤子は母体から生まれ出ずるまでは「人でない」と主張するのに対して、教会は母体内で受精をした時点から胎児は「人であり」、それを掻爬(そうは)することは「殺人」に相当するという。

そもそも造物主たる神の作り賜うた存在に人間が手をかけることは宗教的に許されない。それを認める政府は文字通り“人でなし”となる。

 

 国際機関だけでなく、多くの経済学者は貧困対策として家族計画は必要という。

たしかにフィリピンの人口増加率は高い。

私がフィリピンに関わり始めた80年代末の人口は約6000万人だった。

30年近く経っていまや9400万人まで増え、いよいよ1億の大台にのるのも時間の問題だ。

子だくさんによる家計の苦しさを実感する貧困層の中には家族調整の必要性をみとめるものも少なくない。

限られた収入で食べさせなければならない口数が多ければ、一人当たりの食料は減るし、教育費も削られる。

晩御飯のおかず魚1匹を家族6人(夫婦+両親+子ども2人)で分けるのか、10人(夫婦+両親+子ども6人)で分けるのかでは大きな違いがある。

しかし、容易ならざるはその貧困な人々の精神的支柱でもある教会が、家族計画に反対だということである。貧困者らは判断に困ってしまう。

正確に言えば教会は、法案が認める人口的避妊法を否定し自然家族計画NFPを推奨する。

しかし実際にはNFPはどうも効果に疑いがあるようだ。

 

 貧困層は生活の苦しさを背景に法案内容に賛成する者も少なくない。

世論調査によると76%が法案賛成(2008SWS世論調査)。

一方、彼らの精神的支えでもある教会は「神の声を代弁して」、法案には断固反対の姿勢。

大方の政治家は次の選挙を射程に入れて、政府の意向と教会の主張の天秤を多くの有権者がどのように量るのかを見極めるのに苦慮した。

それは、下院第2読会時(1212日)の賛票113、反対票104、第3読会採決時(1217日)、賛成133、反対79という近接した票数と微妙な変化に表れている。

判断がつかずに採決時に欠席した議員も多数いる。

 

 そもそも人口問題、「人が多すぎる」かどうかというのは難問である。

昔からマルサスの人口過剰論とマルクスの生産力、産業予備軍の議論が鋭い対立を見てきたように、考えれば考えるほど不思議な問題である。

 

 フィリピンで大きく意見が分かれ、判断が揺れるのも、雌雄を決する決定的要因に欠けることが背景にあるからだろう。

つまりどちらに転んでもメリットがあるかどうかはわかないし、そのメリットも大きなものとは思えないのである。

現代のフィリピンの状況を眺めても人口が資源や食糧に対して「多すぎる」とは簡単に言い切れない。

確かに貧しく満足に食べられない人々はたくさんいるが、一方で社会全体として食糧が不足しているわけではなく、都市部では日本同様残飯をたくさん廃棄している。

さらに、多くのアジア諸国が急速に高齢化にむかい人口構成の観点から、近未来の経済社会運営を憂慮しているのをしり目に、フィリピンでは若年層がどんどん増え、きれいなピラミッド型人口構成図を描いている。

経済活動、社会保障の観点から言えばフィリピンは優等生なのである。

実際、フィリピンは近年、インド、インドネシアと並び、「若い国」、「拡大市場」として世界の投資家の注目も集めている。こんな視点に立てば、人口調整など微塵の必要もない。

少子化におののく日本などからすると却って羨ましい限りの話なのかもしれない。

 

 そのうえ、今回の法案は人口調整を「強制」するものではなく、政府は情報と機会を提供するにとどまり計画実施の判断は当事者に任されている。

法律が実施されても人々の判断や行動が急に大きく変わるはありそうもない。

 

 こうしてみてくると、今回のフィリピンにおける法案賛否をめぐる大論争は、行くつきところ途上国の人口爆発を抑制すべきだという国際社会の「常識」とそれを受けた政府の意向を優先するのか、それとも教会いうところの「神のおしえ」を尊重するのか、という対立のように思われてくる。

言い換えれば効率的資源配分を基とする世俗的言説が勝るのか、それとも心の安寧をもたらす宗教的権威が勝るのかという、まこともって高尚かつ遊戯的な論争であるように思われてくる。かつての中世ヨーロッパの教皇権と皇帝権力の対立を彷彿させる。

 

 「遊戯的争い」などと揶揄する捉え方しかできない私こそが、世俗にまみれた“人でなし”なのかもしれない。もう少しフィリピン人の精神世界をまじめに探ってみる必要がある。

 

2013.5