「貧困」を広くとらえるとき、そこには「孤独」という精神的・社会的貧困も見えてくる。
生産社会から消費社会への移行はまさにこの「孤独」を広げていっているという。
生産活動というものは根本的に集団的な活動であって
どれだけ細分化されて分業しようが、ひとつの製品をつくるという過程においては多くの人間の力を要する。
つくることに協働は不可欠である。
一方、消費活動というのは全くもって個人的で、単独で、最終的に孤独な活動である。
ともに消費するという在り方は、シェアできるものを除けば「ともに」なしうるものではない。
(シェアできないものを想像すればやはり消費が個人的なものだと思わされる。「所有」というのは個人の権利である)
ただ、「欲しい」という欲求は知らないもの、見たこと・聞いたことないものに対して働くことはない。
この欲求は社会の中で見聞きして、知っているものにしか働かない。
そうして社会の中で広告によって周知されているもの、世間で良い・悪いと評価されているもの、友達に教えてもらったもの、、、
を「欲しい」と思うこの根本にはどんな欲求があるのだろう。
それは、そうやってあれこれ世間の人たちが言っているものを「所有」することによって
その世間に私というものを同化させたい、あるいは際立たせたい、評価されたい、つながりたい
そんな欲求ではないだろうか。
学校や会社、近所の中での流行りを「所有」することによるそのコミュニティへの所属意識。
周囲の流行から距離をとって、あるいは流行を先取りして「私」というものをそこから出す意識。
いづれにせよ
先に述べたところの私的で、個人的で、孤独な「消費行為」には
どうやら他者からの「評価」や「つながり」というものが含まれていると言えるのではないだろうか。
この意味で、消費行為は「孤独」から離れているのだろうか。
近年のエシカル消費の波は、まさにここでいうところの「消費行為」の可能性を広げる試みではないか。
生産者のことを、社会のことを、地球のことを配慮した、「孤独」ではない「つながり」をもった消費。。。。。
選挙以外に、日常の中で個人ができる政治的な活動(社会のための活動)になり得るか...という期待を込めた消費。
そんな期待を抱きながら、フェアトレード商品というものを販売するときに
そんなに甘くない現実に出会う。
投票という行為によって、よりよい社会にしようとするとき
市民の一人一人に求められるのは社会を慮る「徳」である。
それは、たとえその立候補者や政党を選ぶことが自分にとって好ましくない結果をもたらしうると考えられても
社会全体のためや次世代のためによりよくなるような立候補者や政党を選ぶような行為を求めている。
それに民主主義とは単なる多数決であってはならない。
民主主義の世界で「正義」を実現するには熟議も少数意見の尊重も必要で、人びとの「倫理」がベースになる。
90%の人がユダヤ人を殺すという選択をしたその結果が正義ではないことは明らかであろう。
でも多数決というのは往々にして、そんな間違いを集団で起こす手段になり得る。
消費行為に戻ろう。
エシカル消費(=倫理的な消費)に上のような市民としての「徳」を期待できるだろうか。
それは例えば、100円のバナナと120円のバナナがあってどちらもクオリティは同じというとき、
(しかし120円の方はエシカルバナナであって、適正価格であって、労働者へきちんと賃金がわたっていて、環境に配慮されていて、、、といったとき)
自分の財布から20円のコストを払ってでも、社会のためにとエシカルバナナを選択する「徳」を
「自由な市場」で消費者に求められるだろうか。
※エシカルバナナが本当に社会のためになるという前提だが。
それはやはり否であろう。
そんな消費行為は市場においてナンセンスであるからである。
マーケティングは多数決を重視する。(より多数の消費者に選ばれるものが良い製品である)
消費や投資はチャリティであってはならないし、コストに見合うパフォーマンスが必要だからである。
そしてそうしていっている通り
消費行為においては、「社会のためになる」というストーリーや仕組みをもったものは
消費者的な「パフォーマンス」の中には入り得ないのが現状である。
その点を考えると、今日の投票もやはり「消費者的」であって「市民的」ではないであろう。
そしてこんな現実をみていると、翻ってやはり
消費行為というものは根本的に個人的であって、私的であって、孤独なものなのかもしれない。
それでも、そんな消費者を「徳」をもった真の「エシカル消費者」に変革することを理想として
この先フェアトレード商品を販売していって効果はあるのだろうか。
結局今日のエシカルムーブメントというのは、
「消費者」という性格を変えられないことを前提として
少しでも"Un-sustainable"(持続な可能でなはい)消費を減らすような取り組みにとどまらせようとするだけであって(reduce-unsustainability)
根本的な”Sustainabe"(持続可能な)消費・社会を目指すものではないような気がしてならない。
2020年 8月26日 髙松秀徒