2020年2月 ジョージアの旅路にて

 

「存在論」というのを聞いたことがありますか?

最近のゼミでのテーマで、とっても難しい内容なのですが

意外と面白いのかも!?って思ってきたところです。

ちょっと聞いてやってもいいぞという方、まだ十分な理解が及んでいるわけではありませんが

そんな学生の整理のためと思って、聞いてやってください。

 

存在論とは名前の通り、「在る」とはどういうことか?を問うものです。

 

人間がこれまでずーっと考えてきたことでもあります。

「私がそこに在る」ってどういうことだろう?

生まれてきたときから在る?お母さんのおなかにいるときから存在している?

私が私だって自我が芽生えた時から?私が死んでしまった後は?浄土宗では49日まで亡くなった方は現世にいると考えますし

お盆になると亡くなった方は帰ってきます。

人間の生死以外にも、

愛があるとは。こころがあるとは。私の意識の所在は,、、と様々考えられてきたところです。

 

世界のロボット技術はものすごい勢いで成長していますが

姿かたち、動作、言葉(話し方)、思考ができたとしても

それは人間ではないと感じられるようです。

それは科学がまだこれから挑んでいく領域であると同時に

じゃあ、人間がそこにいる(存在している)ってどういうことかを考えさせられることでもあります。

 

これに関連して最近読んだ「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル著

は非常に興味深い内容だったのでこれに関連して、私たちの「世界」の存在についても触れていきます。

 

「鳥がいる」ことを想像してみてください。

 

自然とそこで鳥は

翼を広げて飛んでいたり

木にとまっていたり

一匹だったり二匹だったり

上の写真のような青空の中にいたり

そのような「意味の場」において存在していたのではありませんか?

 

私たちは「鳥」それだけを決して思い浮かべることはできません。

背景が真っ白であろうが、その鳥はそういう真っ白な背景「において」

虫をついばんでいる場面「において」

そういった文脈において存在しているわけです。

 

だけど、同時に私たちは決して鳥が海を泳いでいたり、スマホをいじっていたりとは想像しません。

それは「普通」考えられないからですし、そんな鳥は存在するはずがないですから

私たちはそういう意味において鳥をみていません。

「鳥」という対象はそのような対象領域には存在し得ないわけです。

このときの領域のことを私たちの「常識」という世界だと言えるかもしれません。

 

ですが、その「常識」を越えれば

スマホを使っている鳥も、火をふく鳥も

そういう意味での「世界」には存在しているということです。

 

そんな世界の鳥がいるという「事実」は観察できるものでも合理的に説明できるわけでもないので

確かめようがありませんが、

事実というものは必ずしも観察できるものでも合理的に説明できるものでなくても存在し得るわけです。

 

それは地球が真っ平だったと信じられていた時代において

宇宙というものをだれも想定していなくても、そこにずっと宇宙はあったことから言えますし

神様や人間のこころといったものは、今でもまったくもって合理的に説明しきれませんが

確かにわたしたちの世界に存在することからも言えます。

 

そんな意味で、この「世界」というものは一つではない。というのが一つ。

世界と聞くと、上に書いたようなあらゆる「意味の場」が集合して連なった全体集合のような気がしますが

そうだと思っている、この意識はまたどこに存在しているのか

と問うた時、

その全体集合の部分集合であっては矛盾するわけで

必ずその「世界」の外側でなければなりません。

となればその外側の世界が全体かといえば、その大外の世界が存在しているのはどこか?と繰り返し問えば

世界が無限に広がっていくことが分かると思います。

その意味で、マルクスガブリエル氏は「世界は存在しない」                             (=「全体」はない。)といっていたのだと思います。

すべてを包み込むような一つの世界もなければ、

そんなものがあるといった時に、まるでそんな世界を上から俯瞰してみているかのような視点も存在しないというわけです。

 

「チェパーエフと空虚」という話の中でこんな対話があります。

”じゃあ、地球はどこにある?”-”宇宙にです”

”宇宙はどこに?”ー”宇宙は宇宙にあるんですよ”

”その宇宙のある宇宙はどこに?”-”僕の意識にです”

”じゃあ、お前の意識はお前の意識の中にあるってこと?”-”そうなりますね”

”つまりそれはどこにある?”-”わかりません、場所の概念は意識のカテゴリーの一つですから”

”どこなんだ、それは。その場所の概念は”-”それは場所だとかそういうものじゃないです。言うなればそれは現...(現実)”

 

この対話の中で、最終的に問いを受けていた人物は自ら「現実」がどこにあるか分からないものだということに気づきます。

 

私たちが今みているものも、考えているものも

すべての事実いっさいのことからすれば、わずかな部分に過ぎませんし

努力して細かく分析したり、大きな大局観ももったりしてみてもそれら一切がすべて明らかになることはありえないわけです。

ただそれでも、明らかになったその部分はまさに事実でもあるわけですが。

 

このような考えを説いたガブリエルは「新しい実在論」の見方としてこのような例を挙げています。

例)富士山があって、それを静岡県から見ているAさんと、山梨県から見ているBさん、Cさんがいる。

 

この例で存在しているのは富士山、Aさんから見られている富士山、BさんCさんから見られている富士山です。

しかし、

 

現実に世界がどのように成り立っているかに関心のある形而上学の考えでは

形而上学)富士山のみ、存在する。(A、B、Cからどのように見られていようが在るのは富士山だけで関係ない)

 

事実など(私たちには分からないので)存在せず、あるのは私たちに見えているものだけという構築主義の考えでは

構築主義)Aさんにとっての富士山、Bさんにとっての富士山、Cさんにとっての富士山、が存在するというわけです。

 

ですが、この世界の中で、必ずしも私には関係のない様々な事実が

私の抱く様々な関心(および知覚・感覚、、、)と並んで存在しているのであって

この世界が観察者のいない世界でしかありえないわけではないし

また観察者にとってだけの世界でしかありえないわけではないというのが新しい実在論です。

そこでは

新しい実在論)富士山、静岡県から見られている富士山(Aさん視点)、山梨県から見られている富士山(B視点)、山梨県から見られている富士山(C視点)が存在しているというわけです。

 

以上のことから言いたいこととは

ある対象が存在するというのは、ある「意味の領域」において現れるということ。

そんな意味の領域(世界)は無限に(たくさん)あるわけで、それゆえにあらゆる対象は無限の現れ方(存在の仕方)があるということ。です。

 

それは「科学」という領域でしか対象を捉えていなければ、その対象はその限りでしか存在しないことを言い

逆に常に私たちがもっている「常識」を疑いながら、新鮮な視点で対象をみれば、その対象はそれだけいっそう多くの現れ方をするという可能性を示しています。そんな意味でも、”これはこういうもんだ”、”こうだからこうなる”といった私たちの考えを疑う姿勢は、私たち自身の存在においても、ビジネスにおいても、学問においても、持続可能な未来のためにも重要だというわけです。

 

ゼミでやっている、A.エスコバール氏のDesigns for the Pluriverseという本では

そんな私たちの在り方(世界)に多様性がなくなってきていると指摘しています。

 

上で重要だと指摘した「新しい見方」や「疑う姿勢」は生活基盤、文化的な背景、言語、環境、などあらゆる世界があってこそ

出てくるものですが

テクノロジーの発達とグローバリゼーションの急速な進展は

どこにいようが似たようなライフスタイルを送る(スマホを手にして、ネット購入して、消費して、SNS発信して、、、)

世界をつくっていっています。

遠くの国でおきたテロ事件をリアルタイムで共有でき、世界中の人がそのとき同じ恐怖を抱く、、、

そしてFacebookでコメントしたり、シェアしたりして、他者からの反応をうかがうような、、、

エスコバール氏はこれをOne world worldだと表現しています。

 

そして大抵この一つに向かって言っている世界の根底的な考えは西洋の合理主義に基づいているというのです。

 

時間の概念がないというアボリジニーの在り方も

老後のことなんて生きているかもわからないのに考えたって仕方ない、今を楽しもうというフィジーのおっちゃんのような在り方も

待ち合わせの時間なんて適当なフィリピンの方々の在り方も

色の概念がないという部族の在り方も

そんなところで考えられている「発展」だとか「成長」だとかって

間違いなく私たちの多くが信望しているSDGs的な発展や成長とは異なるものに違いないはずなのですが、

 

本来なら似たような文化圏にいる私たち一人ひとりの「幸せ」が違うはずなのに

いつのまにか全体として一つの「幸せ」があるように変化していって

そこで私たちの在り方もまた多様性を失い、その分在り方の可能性をへらしていいくのかもしれません。

 

むしろ、繰り返しにはなりますが

私たちの在り方、世界の捉え方を捉えなおしデザインしなおせば

無限の可能性があるというわけです。

 

戦後、急成長を遂げてきた(その背景にあったその先の幸せの)

結果としてある(行き詰った)現状から

私たちはSustainabilityのために真摯に

常識をくつがえしていく時でしょう。

 

M.ガブリエル日本に来た

https://www.youtube.com/watch?v=H9J19m4ey8g

よろしければご視聴あれ。私の長ったらしいけどわかりづらい文章より

本物のお話を聞いてみてください(笑)

 

彼は言います。

今私の左手にあるものは何ですか?(一本のペンを持っています。)

もしあなたが「一本のペンがあります」というとき

「なぜ一本だと思うのですか?」

キャップを外せば二本とも言えるかもしれない。

物理学の世界で量子的に見るなら無限、あるいはそこには何も見えないと言える。

 

2020年8月16日 髙松秀徒