言葉と世界の見方

 先週の学習会は、数学科のメンバーが担当してくれました。「数学科として話をしていきたい」ということで、石器から読み取れる古代人の数学的感性や、古代から連綿と続く人類の数学の営みなどからスタートしました。

 今回のテーマは、「定義」。数学における定義とは、例外なくすべての事例を包括できる普遍的なものでしたが、これをPEPUPの学習会として、みんなで「貧困の定義」を考えてみました。

 

 SDGsの目標の第一番目である「貧困をなくそう」もそうですが、フェアトレードを通して貧しい農家の人たちの力になろうというモットーを掲げているPEPUPの活動においては、学習会の中でもフェアトレード商品の販売の中でも「貧困」は頻出単語です。私たちがよく口にする「貧困」ですが、実際にその定義とはどういうものか、その人が言っている「貧困」とはどういうものかは、人それぞれではないでしょうか。

―お金があるかどうか

―お金があっても精神的満足がないと「貧困」である

―「お金がない」とはどれくらいのことを指すのか:日本とフィリピンの貧困は違うし、同じ国の中でも状況は違ってくるはず。

―国際的な絶対的貧困の基準の基準:それより少しだけ豊かな人は、貧しくはないのか。

などなど。

私たちPEPUPもスタディツアーを通してフィリピンの様子を見てきましたが、生活というのはお金で測れない部分も多いし、お金で測れるものであっても日本と海外では安いものと高いものが違うなど、その価値がすぐに分かるわけではないと思います。

(例えば、台湾でタピオカミルクティーが40元(=約160円)だから、「台湾は物価が安い!」と見えますが、その一方で、1Lの牛乳はスーパーで約80元(約320円)します。その商品やその労働に対する価値/値段って、社会によって違うのでしょう。)

 

結局、「その人が貧困だと思えば貧困なのではないか」、「定義を作ることなんてできないのではないか」とみんなもやもやを抱えていました。そしてまた、PEPUPがフェアトレード商品を取り扱う時や出張授業で口にする「貧困」をどんなものとして私たち自身が定義しているのか、ということを考えさせられる学習会でした。

 

 最後に、文系である私自身が考えたことについて述べたいと思います。それは、言葉とは、状況を定義するという意義だけでなく、状況を再認識させるものであるということです。貧困という言葉があることで、今まで当たり前であった自分の生活について考えなおしたり、フェアトレードという言葉を知ることで、自分が生産したり購入していたりする商品の取引がフェアではない、理不尽な扱いを受けているのではないかと考えるようになるなど、人は自分の状況を言葉に当てはめて考えます。自分が見たもの、感じたものをきっかけにして人間が思考をする時には、必ず言葉を介します。概念は必ず言葉で表されるもので、言葉の理解は概念の理解だと思います。「フェアトレード」を始め、ジェンダー、アイデンティティなど、新しい言葉が使われるようになるということは新しい概念・世界の見方がうまれるということではないでしょうか。

(人は思考の自分の持っている思考の枠組みの中でしか物事を考えたり判断したりできないということを、「認知フレーム」と呼ぶそうです)。

 

 「概念がない」という状態を想像するのは難しいですが、先日受けた翻訳論の授業でこんな話がありました。

 ――枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮 (松尾芭蕉)――

これを訳す時に、「烏」は “a crow”と訳すべきなのでしょうか、”crows” とするべきなのでしょうか。

 

松尾芭蕉自身に聞いても、烏は烏であって、数を聞かれても分からないと答えるかもしれません。単数/複数の言語を使わない日本語話者の見る景色では、a crow/crowsとしてではなく、「烏」として認識しているのです。これも、知覚する対象は同じ(烏)であっても、概念や言葉の違いで認識の仕方が異なるという例といえるかもしれません。

 

 

 学習会や出張授業では、たくさん話して議論を深めますが、今回の学習会のように、議論の道具である言葉について深く考えることも重要だと考えさせられた学習会でした。フェアトレードこそ、「公平」という抽象的な言葉が使われています。PEPUPの目指すフェアとはどんなものか、私たちが取り扱う商品は本当にフェアなのか、と問い続けることはもちろんですが、フェアトレードという言葉とそれが持つ概念/世界の見方に意味があるのだとも思います。

(2020年秋の暮れ 後藤妃南子)